みなさん、こんにちは! あつこです。
今日は、「聖書のことが少しわかるシリーズ第5弾」です。
今月も子ども礼拝でお話担当がありましたので、その時にお話した内容を記録も兼ねて、
みなさんとまた一緒に共有させていただきたいと思います。
「神は愛です」ヨハネの手紙一 より
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことが出来ます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。ヨハネの手紙一 4章17節〜21節 日本聖書協会 新共同訳 より抜粋
ここでいう「兄弟」って身近にいる人を愛しなさいってことよね。今、人間関係で悩んでいるのに。。なかなか人を愛すること、許すこと、出来ないわよ・・。
そこに愛はあるんか
大地真央さんが出演されているCMでこのようなセリフがありました。
「そこに愛はあるんか、信じられる愛はあるんか」
By大地真央 アコムCMより抜粋
このCMで言われている愛、それは、人や動物・人類全般に対する愛情を表しているのかもしれません。
現代社会・この人間界でもすでに、愛について考える機会があるのです。自分の置かれている場所で、人と人とが関わる中で、このCMでは、自分の態度には「愛」があるんかと、問われているのです。
そのため、「そこに愛があるのか」問題では、私たち人間が決めること・感じることとも言えます。
私は・・・
「(あそこにも)愛がある」と思う。(だから、ここに残る。別れない。続ける・・)
「(ここには)愛がない」と思う。(だから、別れる、辞める、離れる・・)
それでは、再び、聖書に戻って愛について考えて見ましょう。
「神は愛です」 〜愛そのものが神様のことである。〜
つまりどんなことがあっても、守られているということ。
神様からの愛をいただいていても、失敗します。人に怒ったり、愛せない自分。
でもそれは、また神様に祈って許していただきながらまた歩む。だって神様からの愛をいただいているのだから歩み始められるはずなのです。
まとめ
私も、人に言えるほど、人間関係うまくやってこれたとは言えません。今も、失敗することあります。
本当に未熟なのです。
そんな自分への学びとなったのが今回の聖書箇所でした。
教会学校でこのお話をした時、共感していただけた、学びとなったとお声かけいただいたのが感謝で、嬉しかったです。
きっと「(人を責めたり。攻撃したりする時がある)あつこ自身も出来ていない」という、そんな自分に向けて準備した学びだったからだと思います。
イエスキリストは、アダムとエバの時代から受け継ぐ、私たち人間の罪(刑法上の罪だけではない、人間の中に潜む弱さなど)がある、その代価を支払うのために十字架にかかって死んでくださいました。
そのことは、私たちの姿形、考え方、どんな宗教か、など世の情報と関係なく、
いつも働いている真理です。
誰かに表明しなくても全く大丈夫です。
まずは、祈ってみてください。
「自分には罪(弱さ)があります。そんな自分を受け入れてください。あなたを信じます。」
みなさんもぜひ神様を知って、生活の中で「喜び」に満ち溢れることが出来ますように。
これからも、みなさんのお役に立てるような聖書の学びシリーズにしていきたいと考えています。よろしくお願い致します。
参考文献:「THE BIBLE 聖書 新共同訳 日本聖書協会」
「(新共同訳)聖書辞典 監修・木田献一 和田幹男 キリスト新聞社」
「聖書のことが少しわかるシリーズ① コリント信徒への手紙 〜土の器の中の宝〜 どうしようもない自分にも宝がある イスラエルでの戦争について思うこと」あつこブログ コンテンツ内より
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