「Hope is not wishuful thinking but trusting in the promises of Christ.」
希望とは、希望的観測でなく、キリストの約束を信じる事です。
みなさんこんばんは!あつこです。
突然ですが私はプロテスタントのクリスチャン(イエスキリストを信じている人)です。
日曜日は家族で教会に通っています。
毎週、わざわざなぜ教会に行くのか。
それは礼拝があるからです。
礼拝とはなんでしょうか、
それは「私は神様を信じており、イエスキリストによる罪の贖い(あがない)を受けて救われている。そのことに感謝します」という神様に対しての態度を表すものだと思っています。
ちょっと難しい言葉が並びました。すみません!
難しいことは考えると大変ですので簡潔に言います。
礼拝で自分の人間の中にある罪を赦されている者として、神様に感謝を言い表すことをしていると思っています。
あとは「神様を信じる信仰の決意表明」だったりします。
つまり、礼拝に行く理由は『人』に会いに行ってるわけではないということですね。
たとえば、この牧師先生の説教(礼拝で語られる聖書のお話)がわかりやすい、面白い。というものではないということです。
でもかつての自分は、完全に『人』に会いに行ってました。
教会に行けば友達もいるし、かっこいい男の子もいるし(笑)。みんな優しいし。
それでも全然問題ないです。きっかけはそれで良いと思います。
それに、社会の中でサードプレイス(仕事・家庭以外の場所)を持つことの大切さが今話題となっています。教会がその役割を担うのはとても素晴らしいことだと感じています。
こひつじ会(日曜学校)は、大人の礼拝の1時間半前に行われます。プログラムは大人の礼拝と同じ内容で進行して行きます。
お祈りや讃美歌、交読(牧師と信徒が交互に聖書(詩篇)の箇所を読む)まで全く同じです。
讃美歌は子ども讃美歌を使い、歌いやすいようにされています。
数ヶ月前に、礼拝で任命式がありました。そこで任命を受けた私は、こひつじ会のスタッフに任命されてから牧師先生はじめ他スタッフのみなさんに支えられ、なんとか勤めを果たしております。
スタッフは基本毎週、子ども礼拝に参加します。
月に1回は「お話担当・礼拝の司会」があります。
大人の礼拝の中で牧師が行っている「説教・司式」の役です。当然準備が必要になってきます。
子どもたちに、そして一緒に集うお父さんお母さんに、わかりやすく聖書のお話を伝えるのは簡単なことではありません。聖書も読んでおかないと行けません。何より自分の心が整えられる必要があります。
今このようにブログで発信させていただいていること、歯科衛生士としての喜び、技術を発揮し報酬を得ることは本当に感謝でやりがいのあることだと思っています。
そんな中でも教会という場所はちょっと違っていて、
’’自分’’の力が働く場所ではないと思っています。
性格とか、この人の良さを活かすのは素晴らしいことです。そのような内面のことではなく、’’テクニック’’的なものを出す場にしないようにしようと思っています。
教会は社会的に地位がある方、またそうでない方、性別、年齢関係なく訪れることができる場所だと思っていますし、またそうであるべきだと思います。
そうなりますと、個人の能力があることを発揮する場所ではないと自覚していく必要があります。意識的に思っていないと、私の場合ついつい奢りが出てしまい、自分のやってきた事を見せびらかそうとしてしまう可能性があります(^^;)そうならぬよう、自分を制しています。
月に1度のお話担当。
プレッシャーもあります。普段の生活では仕事、子育て、家事、ブログ作成などやりたいことが多い。そのような中で聖書を開いて準備をする。世の中の価値観とは違うものを追い求めることへの気持ちの切り替えが必要です。
でもこの世の中の騒音から一歩引いて静かに聖書を開き、学ぶ時間。
この準備の時間は、社会の中で生きる私に足りないものを補う大切な時となっているのです。
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