今日は、私自身の体験を思い出しながら、伝えたいことを書いてみたいと思います。
私はクリスチャンで、毎週家族で教会に通っています。クリスチャンでなくても良いのですが、いろんなことを思ったり考えたり、自分が好きなことってありますよね。自分の中の本質的なものとか。
本質とは:そのものとして欠くことができない、最も大事な根本の性質・要素。
その本質的なものが、スーーーっと消えていくような瞬間が、ありました。それは、人を好きになった時 でした。好きになった人に嫌われたくない。変だなと思われたくない。いちいち、自分の大事にしていること(私の場合は、信仰ですね)を話したくない。いちいち素の自分(体の素っ裸じゃなく、心の素)を見せたくない。ましてや結婚やなんて価値観が合わないとできへんもんやん?!「だから最初から、同じ価値を持った人と結婚するのが一番やわ。」そう決心していました。
つまりクリスチャンの男性としか結婚できへんわ。と青年期の時から希望して祈っていました。
「クリスチャン」と「それ以外の人」
そう分けていたわけです。
私はクリスチャンなのでその考え方で話を出しますと、アダムとエバの時代から、人間を作ったのは神様なんです。「クリスチャン、それ以外の人」ではないはずです。それじゃあ私が今まで出会った友人やお知り合いになった方々に失礼やと思うんです(昔の自分に言いたい(^^;))
家が代々クリスチャンの方同士の結婚。雰囲気的に憧れていたのかな。
祈ればきっと私も!と願いながら、毎日仕事をし、毎週教会に通い、そのあとは家に帰る。(または家族とランチとか)この生活を20代後半まで続けておりました。
(現在沖縄で、子持ち、仕事しながら子育てとバタバタとしている私に取ったら、あの時の、自分だけのために集中できる大阪時代の社会人生活は、今でも大事な宝物です)
お付き合いではなくても1回ほどデートはしたり、メールのやりとりをしたりと、異性との交流は少しはありました。なんでもトライ!の時期(^^;)でもなんとなく、、真面目で固かったですね。
当時の私はもう結婚適齢期。焦っていたし、なんの変化もない自分にワクワク感もなかったですし・・なっかなか、本当の出会いがありませんでした。 変化のない日々に、気持ちが参ってしまう時もあり、涙がポロリ。なんてこともありました。
そんな自分を変えたくて決めたのが沖縄移住でした。
話をかなりすっ飛ばしますが、沖縄移住が始まってから数ヶ月も経たぬうちにボーイフレンドができました(^^;)。(現在の夫です)
何故できたのか。世の中の人とクリスチャンを分けて考えていた私が。
次回は、私の心の変化によってどのように、人生が変わっていったか。
(神様によって変えられたか)
なぜこのような投稿をしようと思ったのか、次回お伝えできたらと思います。
今日も読んでいただきありがとうございました。
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